みなさんと語り合いたいあれこれ、今日は“網走刑務所と構造的暴力”についてです。
先日、ふと以前訪れた『博物館網走監獄』のことを思い出しました。
網走刑務所は、名称を改称する前は網走監獄だったことからこの名前はつけられています。
ところでこの刑務所がどんな経緯で作られたのか、皆さんはご存じでしたか?
私はその背景など全く知らず、ただ重大犯罪人を懲らしめるために、日本の極北の地に作られた、とても厳しい環境にある刑務所、ととらえていました。
ではまず基本情報です。網走刑務所は法務省に属し、そこに収容される受刑者は犯罪傾向の進んでいる者(再犯・累犯・反社会的勢力)とされています。やはり、罪の重い人が収容されているのですね。
日本最北端の刑務所で、農業や林業を営む農園刑務所。自給することを目的にいろいろな農作物と肉牛を生産しているそうです。
高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズで有名になったそうで、これを契機に全国区の観光名所となったとのこと。
余談ですが、網走刑務所の受刑者として小説家の安部譲二、『網走番外地』の原作者・伊藤一、「昭和の脱獄王」と言われる白鳥由栄、『仁義なき戦い』の著者・美能幸三などが知られています。
『博物館網走監獄』は1983年の網走刑務所全面改築工事の際に、教誨堂、獄舎などを移築復元したものです。特に中央の見張所を中心に五つの獄舎が放射状に広がる「五翼放射状平屋舎房」は日本国内最古の刑務所の施設で、木造の行刑建築としては世界最古だそうです。
この博物館の建築物は明治時代の香りを色濃く残すものが多く、見ごたえがありました。
石を積み上げて作られた門などは、収容者たちが自ら作ったものだと説明されていました。
さて、ではこの刑務所はどんな経緯で作られたのでしょうか。
この刑務所の歴史は1890年に始まるのですが、その前に当時のバックグラウンド。
時は明治維新後で、内乱によって国事犯や政治犯が続出し、本州の刑務所(当時は監獄と呼ばれていました)にはもう受刑者を収容する余裕がありませんでした。
一方で日本は「富国強兵」を掲げ、諸外国に追いつき追い越そうと躍起になっていました。
その両面から白羽の矢が立ったのが、未開の地、手つかずの資源が眠る北海道(当時は蝦夷が島)だったのです。
世界を見ると、19世紀に入って北海道周辺にはイギリスやアメリカ、ロシア帝国の艦船が現れ、調査を行うようになっていました。
特にロシア帝国はシベリアやカムチャツカ、サハリンを植民地とし、次の狙いを北海道に定めているかの様相です。
明治政府は1869年に蝦夷の地を北海道と名付けて開拓使という役所を置き、開拓に乗り出します。
そして本州の刑務所の状態を改善するため、1881年に徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁するための集治監(明治時代に設置された囚人の収容施設のこと。監獄の一種)を北海道の樺戸郡に設置するのです。
ちなみに北海道に設置される以前に東京、宮城に集治監が置かれています。
翌年には北海道の空知、1885年には釧路に集治監が置かれ、1890年に釧路の分監として、人口わずか631人の小さな漁村である網走に集治監が設置されます。
少しずつ北海道の中でも未開の地へ、東へ北へと進出していったのですね。
網走に設置された目的は、未開の地を切り拓くための中央道路の開削工事でした。
ロシア帝国の脅威から日本を守るという軍事上の理由は急務。しかし、開拓のために道を作ると言っても相手は原始林。民間に頼めばとんでもない賃金が発生する…。
そこで考え出されたのが増え続ける囚人を、北海道開拓の労働力として使う、という事でした。博物館網走監獄には当時の道路開削工事の責任者が、「囚人は悪人なのだから作業で死んでも悲しむ者もいないだろう、むしろ囚人の数が減れば監獄の経費の節約にもなる、まさに一挙両得じゃないか」といった内容を発言したという記録が掲げられていました。
そして1890年、釧路集治監から囚徒を大移動させて網走集治監は開設されます。
発足時の囚人数は1,392人、その三割以上が無期懲役、ほかも刑期12年以上の重罪人だったといいます。
以前にも、ヨハン・ガルトゥングのバイオレンスのトライアングル(triangle of violence)を紹介しましたが、博物館網走監獄でこの話を初めて知った時に、これはまさしく三つある暴力のうちの構造的暴力に他ならないじゃないかと、何とも表現しがたい怒りのようなものがこみ上げてきたことが忘れられません。
藤田明史さんが翻訳された『ガルトゥング平和学の基礎』(法律文化社2019)の中に三つの暴力についてとても分かりやすい表現を見つけたので、ここで紹介します。
「暴力の三つの形態とは直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力である。
直接的暴力(DV:direct violence)とは、(極端なケースで示せば)迅速で意図的な殺人。例としては、戦争、軍隊、テロが代表的。
構造的暴力(SV:structural violence)とは、社会構造にビルトインされた暴力。(極端なケースで示せば)緩慢な意図しない殺人。政治的抑圧、経済的搾取、文化的疎外などがこれに該当する。
文化的暴力(CV:cultural violence)とは、直接的・構造的暴力を合法化・正当化する文化の諸側面と定義される。ある種の宗教・芸術・文化・コスモロジーなどがこれに該当する。」
さて、1890年に戻ります。網走集治監とは名ばかりのもので、囚人たちはまず自分たちが寝泊まりする小屋を建てることから始めなければなりませんでした。
小屋を作ったら、次はいよいよ工事。
彼らは道なき道を切り拓きながら開削工事に取り組んでいきます
厳しい気候、険しい地形、そして熊との闘い。
この工事は恐ろしい冬が訪れる前に終えなければならず、昼夜兼行で強行されます。
しかし進むにつれしだいに食料運搬が滞り、栄養失調やけがなどで囚人だけでなく看守にも犠牲者が続出する事態に。
この中央道路工事は1891年のわずか一年間で網走から北見峠まで約160キロが開通したのですが、最終的に犠牲者は二百人以上にも及び、この道路は別名「囚人道路」とも呼ばれているのです。
この構造的暴力は、網走集治監だけでなく、北海道の集治監すべてでおこなわれていたと言います。
のちの1894年に国会で「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と追及され、ようやく社会問題として取り上げられて廃止に至りますが、その間に堂々とこのような暴力が遂行されていたという事実は心にとどめておかなければなりません。
現在、日本には62の刑務所があります。法務省によると、そこでは受刑者に対して刑務作業、改善指導、教科指導などを通じて社会復帰の促進が試みられていて、また第三者からなる刑事施設視察委員会が設置され、構造的暴力に対する抑止力となっているようです。
なお、アメリカ・カリフォルニア州の刑務所では囚人の更生プログラムの一環としてNVPの平和教育プログラムが使用されていました。
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